◆三思一言◆◆◆2020.05.29
福田美術館本「洛外図屏風」
左隻第3~4扇
周遊ガイド
⑴嵐山・嵯峨一望 2021.05.29
嵯峨・嵐山の名所中の名所がズラリ。山は松、寺院や街道は竹の植生が丁寧に描き分けられています。「嵐山観音」は大悲閣千光寺で「千鳥淵」や「となせの瀧」も写実的です。こうしてみると天龍寺と嵐山が一体であったことが、よくわかります。注目すべきは渡月橋がないこと。度々流失して、橋が架けられていないこともあったのです。ちなみに中井本には描かれています。
小倉山と愛宕山
さくらの渡月橋
保津川
⑵第3扇 鳥居本 2021.05.29
愛宕街道沿いに建ち並ぶ茅葺民家のようすは、一の鳥居付近で現在もその面影をみることができます。愛宕と清瀧の分かれ道にある茶店は平野屋。鳥居の右側に赤い点々で描かれた鳥居があることにも注目して下さい。「七月十六日山火」は、今に続く五山の送り火の一つ「鳥居形」。このあたりは昔からの埋葬地で、「万日寺(化野念仏寺)」の西の河原は、明治になって付近に散乱していた石塔を集めたものです。葬送地と送り火の関係がとてもよくわかります。
愛宕街道から化野念仏寺へ
愛宕神社一ノ鳥居。右を進むと清瀧。
平野屋名物鮎茶漬け
⑶第4扇 大覚寺・清凉寺 2021.05.29
大覚寺は嵯峨天皇と檀林皇后の嵯峨院(離宮)として造営されたのが始まり。応仁の乱で一山焼失し、寛永年間に復興が進んだようです。後水尾上皇の后・東福院門和子の御所が移される前の、古い様子が描かれています。その西に広い一画を占める清凉寺(嵯峨釈迦堂)も、寛永14年に焼失する前の姿です。清凉寺の前身・棲霞寺は、光源氏のモデルとされる源融の山荘で、もとは嵯峨院の一部。現在も境内に祀られている嵯峨天皇と檀林皇后の供養塔が写実的に描かれており、大覚寺と清凉寺がもとは一体であぅたことが、よくわかります。
大沢の池から大覚寺の堂舎を見る
清凉寺山門
嵯峨天皇の供養塔
⑷ 第4扇 二尊院・常寂光寺・千光寺 2021.07.01
小倉山の麓にニ尊院の広大な伽藍が描かれ、現在は桜と紅葉で名高い参道が総門からまっすぐに延びています。その隣は常寂光寺で、山門・仁王門・鐘楼・本堂と多宝塔が、小倉山の中腹に点在するようすがよくわかります。
「嵐山かんのん」は、大堰川を開削した角倉了以が建立した大悲閣千光寺。写真は対岸の亀山公園から写したものです。
大悲閣千光寺
常寂光寺
二尊院
⑸ 第4扇 天龍寺・法輪寺 2021.07.23
大堰川の左岸に広大な敷地を占める天龍寺。元治元年の禁門の変に関わって焼失し、現在の堂舎はそれ以降に再建されたものです。ここに描かれるのは、応仁の乱後の荒廃を経て、豊臣秀吉によって再興されたようす。今は勅使門と方丈池から旧観が伺えるのみ。
対岸の法輪寺も、禁門の変によって全山焼失。ここに描かれるのは後陽成天皇によって再興された江戸時代初めのようす。今は楼門から本堂へ上がっていた石段が、旧観の名残りを伝えるのみです。
天龍寺総門
天龍寺法堂
法輪寺石段
⑹ 太秦広隆寺 2021.07.23
聖徳太子ゆかりの、山城最古の古刹。元禄年間と伝えられる楼門が建てられる前のようすが描かれています。永万元年(1165)再建の講堂と、建長3年(1251)再建の桂宮院がはっきりとわかります。今は弁天池が少し小さくなっていますが、境内のランドマークとしてポイントの一つ。帷子の辻との関係や、「はた(秦)屋敷あと」の貼り札も興味深くみることができます。
広隆寺楼門
広隆寺講堂
広隆寺弁天社
周遊の続きをお楽しみに